昭和51年06月06日 朝の御理解
御理解 第26節
「信心に連れはいらぬ。ひとり信心をせよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」
信心の徳を受けて、限りないおかげに恵まれて、どんな場合でも安心しておれれるような境地を開かせてもろうて、おかげを頂いてまいりましたら、人が逃げるのではなくて、さすがに金光様じゃなぁと、さすがに一生懸命信心しござった、やっぱりしるしじゃなというて、ついて来なければおれないと言う様な、おかげにもなって来るだろうと思います。六月十日を期して教団では、いわゆる新運動が展開されます。いわゆる「御取次成就信心生活運動」というのです。
そして頂く信心から現す、生みなしていく信心へと言う様なスローガンの基に、信心が展開される訳でありますけれども、どんなにそれを世に問うというか、人に伝えていくと言う事に致しましても、やはりあのう私自身がおかげを受けておかなければ、いうならおかげを受けておかなければというよりも、そのうこれなら間違いのないおかげの頂けれるという入り口までには立っておきませんと、確信をもった伝え方お話しは出来ないと思います。それまでが私は一人信心であってね。
そこのところが確信を持って人に伝えられる時に、その確信というかその迫力というか熱というか、そういうものが相手に伝わっていくんだと思うんです。「あなたはそげん言いなさるけれども、あなたはいっちょんおかげ頂きよんなさる風じゃないじゃないですか。」と言われたらそれまでですからね。「いや私がおかげを受けられんはずはない、見とって下さい。」とその自分の信心のひとつの生き姿というものを、見せていけれるだけの信心がなからなければ。
やはりいうなら皆逃げておるというか、「私はとてもあげな真似は出来ん」と言うて逃げるだろうと思うです。あぁしこ参りござるとにあれだけまぁいうなら一生懸命になってござるとに、そしていうならば難儀な連続と例えばいうならばですね、例えばそれであってもほんならそこに、一つの確信というものがあっての、世界に問うのであり人に伝えていくのでありでなからなければ、そこから生みなされて来ると言った、おかげにはなってこないと思うです。いわゆる最後の所にある「日に日に生きるが信心」。
素晴らしいですよね。何かその「日に日に生きるが信心なり」とこう唱えただけで、自分の心に底から何かが湧いて来る様なものがあります。もう「日に日に生きるが信心なのだ」と確信できれる。まぁこれはいろいろに説かれますけれども、いうならば過去を忘れて、今日を喜ばしてもらい、明日に期待する、明日への希望とそういう信心の事でもありましょう。いうならば過去というものを無くしていく。
いわゆる日に日に生きると。今日新たに信心の息吹と言う様なものが感じられる生き方。日に日に生きるが信心。今日只今私がこの様なお生かしのおかげを頂いておると言う事だけで、そのおかげを思うただけで、一切の問題が解決するという位の信念です。中にはこの世に生を受けておる、生きておると言う事が苦しい、と言うてなら自分で自分の命を断つような人もあるけれども、いよいよいうならば世の敗残者という風に申しますけれども、お道の信心をさせて頂くものはです。
日に日に生きておると言う事、今日があると言う事だけでです、一切の問題が解決する。という程しのものなんです。昨日、日田の本当の山奥でしょう。日田まで出て来るだけでもやっぱちょっと時間がかかるんでしょう。製材、材木商をしておられます、坂井さんでしたですかね、時々参ってみえられます。大変まぁさっぱりした方ですから、本当に願いどおり言わばおかげを頂くです。
ところがこの前大分支部のご大祭の時に、ご案内を頂いとってお参りする積りにしとったけれども、山の売買、山を買うと言う事で、そのような話があったからご無礼した。「ところが先生、その日からです、もうおかげのストップをくろうとります」と言われるんです。おかげのストップちゃどげな事ですかと言うたら、「もうとにかく九分九厘、山の商いが九分九厘出来ておる。それがみんな外れていった」、もうある所には沢山なお土産物をもってもう決まったようであった。
もういわゆる元を入れたと言う訳です。ところが「見合わせとこう」と言うて電話がかかってきた。もう一軒なんかは鶏まで食うちから決めとったと言う訳です。まぁそれは決まり酒っていうのじゃないでしょうかね。鶏をしめてからまで、そのまあ杯交わして決めとったのがくずれたと言う訳です。もうその崩れ方があまりにも鮮やかですから、今日はお参りをしてきたと。やっぱりその日頃御教えを頂いておりますと、すぐピンとくるのでしょうけれども。
中々例えばその神様を中心にした生き方と、と言った様な生き方が分かってないです。いわゆる自分は大分支部の一支部員であるという自覚もない、ただ案内受けたけん参らじゃこてと決めとったけれど、外に用が出来たからお参りが出来なかったと。それ以来そのう次々とまぁおかげのストップをくってる訳です。なら明日からなら、いわゆる危険信号の赤が出ておったのでしょうから、「明日からひとつ青が出るようなお繰り合わせを願うとかないかんですな」と言うてまぁ話した事でしたけれども。
いわゆる日に日に生きるが信心、信心と言う事になって来るとですね、そういう失敗を繰り返さなくてすむんです。昨日、御理解に頂きますように、お互いが人間であったらもう現在は末法の世界だと、末法の世だと言われるのだから、もう今の地球上に住む人間の上にです、天地はもう救いようがない、助かりようがないと言う程しの状態だと、お釈迦様はまぁそう言っておられたというのです。それを創価学会の新聞にはそんな風に書いてある。いよいよ言うならば人間のいうなら、破滅の時がいよいよ近づいた。
ここでなら生き残れれるというか、おかげを頂いていけれる者は、創価学会で言われる題目を唱えると言う事。またはしゃくふくと言うですか、お導きをして行く、この二つをするものだけが生き残るんだと、言う様な意味の事が新聞に出ておったというて、秋永先生から昨日一昨日聞かせてもらった。その創価学会が、そげな風に言うておられる日蓮さんがいわば予言しておられるその事がです、私はまんざら嘘ではないと思うです。私はそれをそう思うです。
私自身ももうこの地球上には死相が見え出したと、神様が教えて下さるのですから。もうそれこそ神様が寒天危地、寒い天危ない地上という寒天危地。それを歓天喜地にするものはです、いうなら歓びの天、喜びの地上にするのは、本当にお道の信心を頂いて、我が身は人間の姿しておるけれども内容は神様。信心とは我が心が神に向かうのを信心と言うのじゃと。この方の事を生神生神というけれども、皆んなもこの様なおかげが受けられると言っておられる。
この方がおかげの受け始めで、みんなおかげが受けられると言っておられる。そこのところの自覚に立たせて頂いて、一歩ずつでもいうならば、神様に近づく修行をさせて頂くと言う事によって、いわゆる人間と神様との一歩前進と言う事になる訳です。我が心が神に向かうていくのが、それがお道の信心なんだ。それがなら今日言う日に日に生きるが信心、忙しかもんじゃからこれがあるもんだから、今日は日田支部大祭と言う事通知を頂いておるけれども、こちらの方の商いの都合でいかれないから。
これでは神様へ向かうとる信心とは言えない、日に日に生きるが信心と言う事はには言えない。いうなら神様を中心にした言うならば生き方。そこでですなら日々私が申すところは今皆さんに、聞いて頂いたようにわが心が神に向かうと言う事は、金光教の信奉者の全てがね、総生神を目指す事だとなら言うておるが、ならそうだと知っておるが生神への向かう、わが心が神に向かうその手掛かりとして、あなた方一人一人がどこに手掛かりを置いとるかと、ひとつ自問自答してみなけりゃいけんです。
神様へ向かうておるしるしが日々の信心修行というか、日常生活の上に現れておるかと。神様に向かう向かうだんじゃない、反対の方へ向かうておる。人間の面しておるだけで、それこそ人間として孝言う様な事で良いだろうかと、言った様な方へ心が向いておるような事では、だから昨日から言っております教えには反する事になります。果たして皆さんが日々なるほど、おかげを頂かなければならない、お取り次ぎを頂くおかげを頂く、だからお参りしておると。
そして話にはわが心が神に向かうのを信心というのじゃ、日に日に生きるが信心なりと言うのじゃ。私共が日々神様へ向かって、精進していく生き方をお道の信心の芯だ。なるほど合楽では大祓い信行が言われ、合楽示現活動に参画するという、いうなら創価学会で言うところの、ならご題目の連唱である。いうならばそれが大祓い信行に当たりましょう。本気で大祓い信行をさせて頂いておるうちにです、いうならば心が神様と交流する、神様が生き生きとして見える、自分の心が生き生きとしてくる。
その生き生きとした心で、我が心が神に向かう生き方をしるしていこう、納めて行こうというのです。汚れ果てておっては我情が先にでる、我欲が先にでる。今日はこうすることが本当だけれども、本当な事を取らずに自分の我欲の方へ走ってしまう。というならばです、これは神に向かうておると言う事には言えない事になる。なら合楽示現活動と言うてもです、それこそわが身におかげを受けてという、おかげを受けなければ人に伝えて行くと言う事もできません。
人がそこに自分が助かっておる様に、この人も助かられる事を願って示現活動に参画させて貰う。大祓い信行による心の清まりを土台にして、そういう運動に参画させて貰うと言う事がです、死相が現れておるという地球に、又生気を取り戻す事が出来る。和賀心時代を作ると言う、合楽で言われるねそういう運動に参画させてもらう、いやそうしなければおれない程しのいうなら使命感というものがです生まれてくる。昨日は壮年会でしたが、そんな話が出ました。
今度壮年会の大会を開くために、昨日は何時も見れない顔ぶれが、何人も見えておられた。そして色々話の末に自分たちがです、いうならそういう一つの使命感を持って、人に接していこう、今度の壮年会もそう言う事を昨日は芯にして、一つ本当のおかげにして行こうと言う様な話をなさっておられます。どうでしょうか皆さん、合楽に御神縁を頂いて、いうなら昨日の言葉を借りると、思し召しの人として、神様から思し召しが掛っておる私だと、言った様なものを感じられる事があるでしょうか。
私はそれを信者時代にそれを感じました。もうこれは絶対大坪総一郎でなからなければ出来ん事があるからこそ、今日この様な修行をさせて下さるんだなぁと言う事でした。ですからもうその力がね、モリモリとどういう中にも出て来るんです。その時分に私があの言っておる事の中にです、ナポレオンという人は辞書から不能という言葉はもう取ってしまえと言う程しの確信に満ちた人であったが、私にもし私の辞書というものが出来るならばです、もうそれこそ難儀というものは、私の辞書の中にはないんだと。
難儀というのはないんだと、あるのは全部神愛だと。どんなに難儀に見えておるかに見えておっても、その難儀は御神徳を頂かせてもらう、いうなら御神徳の塊の様なものだ。それをお粗末にしては相済まんと言った様な心が、開けておった事を今から思うです。そういうおかげを頂かして下さろうとする、神様の願いがある。これはもう大坪総一郎でなからにゃ出来ん御用があるに違いはない、でなかったらこれ程信心するのに、これだけのいうなら当時は難儀は難儀としておりますけどもです。
難儀を修行としてただ頂いておるだけですけれども、修行がある筈はないと言う様な受け止め方。そういう私は神様の思し召しが、私に掛っておると言う様な私は願いに立ちますと、日に日に生きるが信心と言う様な内容が段々分かって来る。なるほど一人信心せよという意味も分かって来る。あの人が参るけん参る。あの人があげん信心しござったばってん、おかげ頂ききらっしゃれんけん私もやめたと。と言う様な事になるです。もう私一人になっても貫かせてもらう。
それは私にはこういう神様の思し召しが掛ってるんだという、昨日はそういう意味で皆さんに聞いて頂いたですね。神様の思し召しが掛っておるんだと。昨日東京出張の帰りに伊万里の竹内先生が立ち寄られました。それでお茶を頂きながら、私は竹内先生から初めてこんな事を聞きました。親先生あなたの立場はいいと言う訳です。ところが市長としての立場になると親先生、あなたの言われるような訳にはいけん事があるとこう言われるわけです。どういうことですかと言う訳です。
親先生はどういう難儀な事であってもお取り次ぎをなさる。そして後は神乍らでしょうがというのです。おかげを頂ききらなかったら、ならあなた方の信心が足らなかったとこう言やあよか。私が言う事を聞かんけんとこう言やあよかけれども、私は市長として伊万里市の繁栄を願わして頂いておるんですけれども、私の場合はそういう訳にはいかん。本当に言う事と実際起きてくる事が伴わなかったら、今度の市長はつまらんと言う事になったり、素晴らしいと言う事になったりはっきりしてる訳なんです。
そういう意味合いで親先生、あなたはどういう難儀なお取り次ぎをなさってもですよね、後は神様にお任せだから楽ですけれども、市長はそんなわけにはいかんとこう言われる、聞きよってそれもそうだなと思いました。けれどもね合楽の場合、例えばなら確かに願う氏子におかげを授けと言われる、そのもう信心が出来ようが、出来まいがおかげを授けてあると言う事である。そして後に理解申して聞かせと言う所に焦点をおいて、こうしてご理解を皆さんに聞いて頂くのです。
そこでなら皆さんが一心発起させてもろうて私がいうところの、今日言っておるところの、もう人間から神様へ向かう、一つの手掛かりを求めて進んでいかなきゃいけん。なら神様へ向かうと言う事はどう言う事かと言うと、神様の心を知る事である。そして神様の心を心とする事である。この神様ほど麗しい方はないのだから、麗しい心になる事につとめるのである。この神様ほど寛大な方はござらんのだから、寛大な豊かな大きな心にならせて下さいと願う事である。
この神様ほど正確無比な方はおられんのであるから、いよいよ実意丁寧きちっとした、節度のある信心をさせて頂くと言う事が、取りも直さず神様の心を心としていく事なんだ。それが神様に向こうて行く事なんだ。問題があってもその問題を通して又生神への一歩前進だと言う様な頂き方をする事なんだ。難儀にみえておるその難儀でもです、それは難儀ではない神愛だと頂いて、そこを乗り切っていく修行をさせて頂く事だと。
昨日は善導寺の久保山さんが、皆さんもご承知でしょうが、あそこの中庭にもうそれこそもう、何百年たったと言う様な素晴らしいしだれ梅がございます。毎年もうそりゃあこちらに根元に真っ赤なつつじがあって、もうそれこそつつじの花の咲く時には、お座敷一杯が赤うなるような素晴らしいつつじでしたよね。そのところに大きなご普請がありますから、それを移植する訳です。ところが何十年間久保山の家に、いわばお母さんがみえて初めてそのしだれ梅に、実がなったというて昨日持ってきなさった。
久保山先生の信心はなるほど梅の花の信心だけれども、何とはなしにしだれ梅的な、いうならば中々実が実らないタイプだと言われておりましたがね。ところが今年初めてこの実が実ったと言うのですこのしだれ梅に。いわば奇跡だ。なるほど今年はあちらにあんな立派なご普請ができよる。いうなら実が実りよると言う訳です。だから本当にとても久保山先生が亡くなられてもう十何年でしょうか。初めてその初めて実が実ると言う様なおかげになってきた。信心の徳とは有り難いと私は思います。
やはりその実が実って初めてです、なるほど神様じゃなあと言う事にもなってくるのである。なるほどこれは親のいわゆる御霊の働きだと、確信させて頂く事が出来るのです。今日は皆さんに自問自答して頂きたい。まぁ地球上の人間がもうなくなってしまう、地球が潰れてしまうと言う程しの、予言をした人すらがあると言われておる。そう言う事を、なら仏様の世界でも、なら私が言っておる事でもです、私は寒天危地と頂き、又は地球上に死相が現れておる程しだと。
けれども死相が現れておるほどしの、例えば人間でもまた無い寿命でも頂かれる、お道の信心を頂いておるのですから、私共がそこん所に気づかせて頂いて、寒天危地を歓天喜地にしていく、いうならば責任というか使命感を持ってです、私共がいよいよそれに当たらなければならない。そう言う事を今度本部では言うておるんだけれどもです、言うておって語りかけていってもです、自分自身がそこん所の確信を持ったおかげ、それはどう言う事かと言うと先ず私がです、神様の世界に足を踏み入れとかなければ。
信心とは我が心が神に向かう事が信心だという、もう人間であって人間でないという生き方が身について、このまま行きゃあ自分も生き神への境地が開けてくるぞ、この世だけではならん、あの世までも続けていけれるのが、生き神への道の精進なんですからね、そこんところが出来ておるか出来ていないかということを、今日は皆さんに確かめて頂きたいと思うのです。一生懸命修行もしよる、一生懸命お参りもしよるけれどもです、ただおかげを受けなきゃならんという。
また日々頂いておるおかげのお礼参拝というだけではなくてです、自分の心の本当に神様の方へいうならば一歩、神様の世界に足を踏み入れておると言う事です。それはいうなら信心とは本心の玉を研くもの、信心とは日々の改まりが第一、天地書附にあるところの和賀心を目指すという、和らぎ喜ぶ心を目指すと言う事がお道の信心だと、そこに一つの思い込みが出来て私は行くところにです、そういう意味においての、一人信心ができていくならばです、もうそれこそどういう千万の敵があっても。
我一人であってもそれに向こうて行くという、勇気が生まれて来るんです。日に日に生きるが信心なりという、その御教えのそのお言葉の実感が心に湧いて来るです。そこに修行の楽しさがまた生まれて来るです。本気の示現活動に参画させて貰うという躍動する、いうならばものが感じられるようになるです。これは私でなければ出来ない御用があるんだと、神様の思し召しが掛ってるんだと思うただけで、今例えば踏ふんまえておる難儀があっても、その難儀は実に有り難い、楽しいものになって来るです。
そういう生き方こそがです、私は日に日に生きるが信心を、体験させて頂く事が出来れる信心だと思います。どうでも人間と神様の愛をです、いつまでも人間の世界におらずに彼岸の彼方、ここが人間の世界ならばです、もうこの橋を渡っていけば神様の世界に行けれるんだという橋に、一歩足をふみかけた自分であると言う事をです、自覚をしての信心修行でなからなければ、いわゆる日に日に生きるが信心と言う様な、生き生きした信心は生まれてこないと思います。
どうぞ本気で一つ生神様を目指す、又は目指しておるかどうかと言う事を今日は確かめて、本気で限りなく美しくならせて貰う、限りなく豊かな心にならせて貰おう。一ついよいよ実意丁寧、いわゆる正確な私にならせて頂こうという、精進を始める事が既に神様の世界、いうなら神様の世界に渡られる、いうなら橋に一歩踏みかけた事になるのです。一歩一歩この橋を渡って彼岸の彼方へ、神様の世界に、いわゆる歓天喜地歓びの天喜びの地上、その神様と私共の喜びあえる。
本当の意味においての合楽の世界顕現にです、私共が精進させて頂く。そういう修行を一つさせて頂きたい、こういうまぁ高度な考え方をですね、させて貰う時になるほど信心に連れはいらん。またそう言う事を始めからのっけから言うてもです、とても人がついては、やはり死ぬるにも連れがいろうがと言われるのですから、もう我一人をもってでも進んで行こうという、勇猛心がいる事をこの今日二十六節から聞いて頂きました。
どうぞ。